野島青茲 (のじま・せいじ)

プロフィール

大正4年(1915年)~昭和47年(1972年)
日展文部大臣賞受賞・新境地を追い求めた孤高の日本画家

野島青茲『薔薇』(部分)

伝統的な大和絵を学び、それを活かしながら新しい境地に至ることを目指した日本画家、野島青茲(本名・野島清一)。

清澄な画風で知られるこの美人画の巨匠は、浜松・細江の地が送り出しました。

野島青茲『桔梗』(部分)

1972年(昭和47年)に55歳という若さで惜しまれつつ世を去りましたが、その精神は作品の中で今も精彩を放ち、生き続けています。


慕っていた師を早くに亡くしながらも懸命に道を模索し続け、国家事業である法隆寺金堂壁画模写にも従事。

演劇や古典にもよく通じ、その深い教養を地道な研鑽によって着実に昇華させ、他に類を見ない独特の画風を生み出しました。


力強く迫ってくる絵肌、優美な線描、雅で鮮やかな色彩。どれもが圧倒的な存在感をもって私たちに語りかけてきます。

  • 野島青茲『 酸漿 』
    野島青茲  『 酸漿(ほおずき) 』
  • 野島青茲『 チューリップ 』
    野島青茲  『 チューリップ 』

野島青茲(のじま・せいじ)略歴

1915年(大正4年)静岡県引佐郡気賀町(現・細江町)に、旅館の長男として生まれる。
1928年(昭和3年)小学校卒業後、東京の進学校に入学するため上京。
1929年(昭和4年)新宿の日本画材料店の店主に簡単な手ほどきを受けたのが、
日本画学習のきっかけとなる。
1930年(昭和5年)松岡映丘に入門。
1933年(昭和8年)東京美術学校日本画科に入学。
1936年(昭和11年)文展監査展にて初入選。(『田の草取り』)
1938年(昭和13年)師の松岡映丘 逝去。東京美術学校日本画科を卒業。
1944年(昭和19年)法隆寺金堂壁画模写事業に従事。
(中村岳陵班、一号壁・五号壁)
1947年(昭和22年)第1回静岡県美術展覧会にて特選。(『野鴨』)
1958年(昭和33年)肺結核のため、療養所に入院。退院は翌年となる。
1965年(昭和40年)第18回新日展にて文部大臣賞受賞。(『母子像』)
1967年(昭和42年)法隆寺金堂壁画再現事業に従事。
(橋本明治班、8号壁(文殊菩薩)を担当)
1970年(昭和45年)野島青茲展を開催。
1971年(昭和46年)東京の自宅で逝去。(55歳)

野島青茲 作品例

下記に掲載されている作品は、過去に当画廊で販売したものの一部です。 ※禁無断転載※

  • 野島青茲『 三宝柑 』
  • 『海老』
  • 『桔梗』
  • 野島青茲『ばら』
  • 『栗』
  • 『花』
  • 野島青茲『なす』
  • 『梅』
  • 『ほおずき』

このページに掲載されている画像は、当画廊でこれまでに扱った作品の一部です。 ※禁無断転載※

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